手の鳴る方へ

これでもかとおっぴろげつつ、こんなに多くの方に読まれると思わなくて、昨日一日中、Facebookの反応に毎度わたしの顔はかーっと熱くなっていた。

コメントを残してくださった方、長い長いメッセージをくれた方、今日これから会おうと言ってくれた方、明日空いてたらおいで、と呼んでくださった方まで。

正直、本当に、本当にびっくりした。こんなにも反応があるなんて。

 

ブログを始めた、というより、昨日の、いや昨日までの、身のまわりの、わたし自身のカオスを一度整理しなければならない感じがしてかなり衝動的に書いたものを、とりあえず誰かの目に触れるところに置いておこうという感覚だった。なぜわざわざこんな恥ずかしいことをしているかは正直あまりわからない。

 

でも、とりあえず文章にして残すということには、僅かでも、何らかの意味があるかもしれない。

 

ぽんこつの、苦し紛れの一歩だと思いたい。

 

 

昨日、文章を読んで連絡をくれた、わたしをとてもよく知る人に、すごく綺麗にまとめてる、綺麗すぎると言われた。

いつものわたしと違う感じがする、ぐちゃぐちゃしてない、どろんこじゃない、と。

 

すごく気になった。たしかにそんな感じもする。この人以上にわかってくれている人はいるのだろうかというくらい、よく見てくれているから。
けれど、昨日はだいぶおっぴろげた。脳内だから、カオス、である。
けれど、整理することが目的だから、ある程度、時間を追って書くことを意識した。
めまぐるしい気持ちの流れを追った。理由を探した。だから、すこしは整ったのかもしれない。

 

たしかに、わたしはよく、ぐちゃぐちゃのどろんこのなかにいる。
でも、それを整理すると、ひとつの大きな流れになっているのかもしれない。
別々のものだと思っていても、もしかしたら、同じ大きな川の流れのなかにあるのかもしれない。

 

わたし自身がその流れを知りたかった。
新品の無印の透明なクリアケース(長方形)に、目の前に広がる雑多なものをとりあえず並べて入れて、全体を見渡したかった。

 

***

 

今日、暇なら来なよと、うたの先生が呼んでくださり、美味しすぎるごはんや甘いものをご馳走してくださった。
わたしがとてもあこがれる、おふたり。

たくさん、お話をしてくださった。

自分が若いときのこと。今までしてきた選択のこと。
すこし緊張はしたけれど、話さなくても大丈夫だという安心感があった。今ここで彼らに価値のある時間を提供しなければならないという義務感がなかった。
あたたかくて、やわらかくて、ゆるくって、肩の力を抜いていいと言ってもらっている気がする。うたの関係のみなさんといると。
そこが、わたしがあの場に惹かれる理由なのだと思う。
しっかりなんかしてなくていい。好きなように生きよう、それでいいんだと言ってもらえる気がする。


ぐらつくのは真剣に向き合っている証拠だということ。
好きだと思ってきたことが好きじゃないのかと思うことが、普通だということ。
いつやめてもいいし、いつ始めてもいいこと。
まだ若いということ。
だめな自分を許すこと。
もうすこしゆるく、が、必要なこと。
生きるのにとても大事な、自分の見方と、心持ち。

たくさん教えてもらった。

彼らは、「在りかた」がとても自然で、
命にまっすぐに、とても誠実に生きている感じがする。

 

わたしもそう生きたい、と思う。

だから、たぶん、いま、苦しむのだと思う。

 


***

 


音楽の世界で交わる人たちに、大切なことを教えてもらうことが多い。

わたしが憧れる素敵な女性のひとりは、わたしのフルートの先生だ。


あるときわたしが、だれかに「頼る」ことが苦手だ、迷惑をかけることを苦しく感じる、と言った時に、先生が教えてくれた。

 

人はかならず、関わりのなかで生きているね。
迷惑をかけることも、関わりかたのひとつ。
迷惑をかけられている方は、それを迷惑だなんて思っていないことも多い。

関わっている、ってことだよ、と。


そして、先生は言った。


今の、さとみちゃんという人は、2割はお父さんお母さんかな、1割は、さとみちゃん自身。あとの7割は、出会った人で、できてるんだよ。


ああ、そうだ。ヒントをもらっていたのか。

 

わたしは人に恵まれる。

と、思っていた。

 

なんだか不思議なくらい、奇跡のようなタイミングで、いろんな人が、いろんな縁で、すっと手を差し伸べたり、引っ張ってくれることが、そういう不思議なことが、生きていてとても多い、と。


それはたぶん、もしかしたら、自信はないまま言うけど、すごく、わたしなのかもしれない。


「本当に、わたし、人に恵まれるんです、わたし自身はこんななのにね、本当に、どうしましょう。」

そう言ったとき、

それも、さっちゃんやから。と言ってくれた人もいた。

そのままで、よろしい。ひっぱってもらい。
今のさっちゃんが、みなを引き寄せてんやから。と。

文脈をガン無視するけどわたしはこの人がすごく好きだ。

 

ひょっとしたら、人に恵まれる、というのは、不思議なことでも、スピリチュアル的なものでもなく、まあそれもあるかもしれないけれど、割とこの世界で起こる自然な現象なのかもしれない。

そういうなにかがあった、または、もしかしたら、わたしのなかにまだ、ちゃんとあるのかもしれない。


だれかに、時間を使って命を使って向き合ってもらう、会おうと言ってもらう、そういう目に見えるものに、なっている。


何時間もかけて向き合ってくれた人がいた。
そういう、だれかの想いなのだ、力になるのは。


ああ、いていいのだ、と感じるような
根拠の無い自信の源のような

 

それが、もしかしたら、この二年のあいだ、恋人から求められること、という単純なものによって保たれてた気もしないでもない。 

いや、そう単純でもない気がする。どうなんだろうか。

 

そういえば、昨晩はおもしろい夢をみた。

元彼が新しい彼女と仲良さそうに映画の上映かなんかを見ていた。わたしは友達と。席が四つくらい離れた場所で。

 

おお、なんか、しあわせそう、よかった!と思いつつ、気になった。
朝、目が覚めてからの、心のずーんとした重みは、たぶんそのダメージだ。

 

 

最近まわりに新しい恋人ができた人がいて、その人の言葉が、昨日、刺さった。

 

自分でもあほみたいだと思う言葉でも、どうしても刺さることがある。

それも、笑ってしまうくらいに。

感受性をこう、もうちょっと緩められんのかと自分で思う。

気にしない、が、難しい。

 

それにしても、夢、単純すぎやしないかと思う。

 


最近、まわりに結婚している人が増えた。
日々の、SNSでの入籍や出産の報告が、格段に増えた。

もちろんそれは一部の人たちで、知り合い全体を含めても、全然多くない、数人だけれど。

どうしても気にしてしまうのはきっと、少し前まで、自分がそうなると思っていたからもあるだろうと思う。

自分が二ヶ月ちょっと前、そういう状況のとき、まったくと言っていいほど気にしなかった。

結婚したいと言われる自分の価値。恋人でなく、家族というレベルでの理解者ができることの安心。そういうすべてが、自信のようなものになって、気持ちを安定させた。自己肯定感、ってやつ、か。

 

ある人に、最近わたしの感情があまり動かないのは、振られたからだと言われた。

一瞬、それはないと思ったけれど、それから、


ふむ。

あながち間違っていないかもしれない。


と思った。もしかしたら。

もしかしたらわたしはこの2年間で、そういう自信みたいなものを、恋人という位置にいる人の存在で保っていたのかもしれない。

それは当然のことかもしれないけれど、それが無くなってバランスを崩すのはあまりにも情けない。恋愛しかないみたいな、なんというか、弱くて、頭の良くない感じがする。自分がそういうイメージに繋がる価値観を持っていたという可能性は、あまりにも認めがたい。
これ自体も、頭の良くない感じの、ひどい偏見だけれど。


ただ、気持ちの高まりとしての恋愛というより、わたしにとっての最大の理解者兼求めてくれる人という捉え方だった気がする。むこうはただ女性として、または奥さんとしてという捉え方かもしれないけれど。わからないけれど。

 

今はやりの

前前前世から僕はきみを探し始めたよ」

なんて、女の子としての自分より、まず一人の生きている人間として嬉しすぎる言葉でしょう?


きっとそういう、人間としての、生きるための精神的基盤を、他者の存在に見出してしまったがために、もしかしたらバランスを崩した。

まあ、付き合っているあいだもバランスは不安定だったにせよ。
むしろそれも、「彼女としての価値うれしい!」と「いや、完全な理解などできない、孤独!」のあいだの揺れでもあったわけだから。たぶん。

 

人間って、勝手だ。

 

***

 

おっぴろげてみたら、それに反応があった。
このことにまず、びっくりしている。

 

だって、なんというか、綺麗に整えたかもしれないけれど、かなり衝動的な、吐露、いや、排泄、うーん、むしろ嘔吐に近い。

気持ち悪くて気持ち悪くて、出さなくてはいけなかった。出てしまった。

 

そして、そんなものを、赤ちゃんの吐息などと、やわらかい表現を選んだのもわたしだ。

中身はおむつに包んだ方がいいものだった、ということが事実であるにもかかわらず。

かっこつけた、というのもなくはないんだろうけれどしっくりこない。
たぶん、わたしらしいのだと思う。このタイトルの言葉の選び。

 


読んでくれる人や、反応をくださる人がいる限り、「書こう」と思える気がする。

 

そして、それはきっと、「好きだ、人生を一緒に生きたい」というだれかからの告白や、 何時間も会って時間を過ごしたり話をすることや、すごくわたしっぽいアクセサリーのプレゼントや、見捨てずに「心配」されることや、そういうことがある限り、「生きよう」と思えることと、イコールだと思う。

 

ある一人の人間、単体にむけた一通のメッセージが届くことは、そんなにも「生」を肯定するのだ。


校正せず、出したなら出したままで。
洗って整えて並べて、をしない、
排泄物らしい、
くっさくてカオスなままのもの。

それはたしかに、わたしらしい気もする。


自己を表現すること。
それによる連鎖と、めぐり。


あれ、これは、生きる理由でいいんではないか。
割とおもしろい、割と楽しい、人間の活動であるような気がするぞ。
お。そんな気がするぞ。


言語化をすること。気になっているものを。自己を。書くこと。誰かがそれを読むこと。それが知識のレベルであっても思考のレベルであっても論理のレベルであっても、一人の人間が考える「何か」が表現され、知の財産として残される。

 

文学も、だ。
もしかしたら、批評も、エッセイも、論文も、研究することそのものも、そうかもしれない。

そういうことを、この、思考を文字に起こす作業と、そして、形になったものへのだれかの言葉や反応で感じるなどとは、思ってもみなかった。


生きているとは、そういうことに出会うことかもしれん。
さては、生きているということには、希望があるのかもしれん。

 

希望があると思いたい、と言ったら、

あるよ、希望、と言ってくれた人がいた。

 

その人はわたしの研究することや考えていることに対して、

「おもろい」

という言葉をくれた。


たった一人だけ、この世界に、「おもろい」という共感があっただけで、ああ、やってみようかなという気になった。

 

という、気に、なった。

 

なのにその人は最近、あまり元気がないように思う。
文脈をガン無視するけどわたしはその人になにもできなくてもどかしい、よくわからない何とも言えない気持ちでいる。
それなのに彼はわたしにこの前、自分を大切にしてあげて、と言った。

 

いや、あなたが言うんですかと思うほどだったけれど、それをそのまま彼に返すと、人に言うといてやりかたがわからんと言った。

 

そうなのだ、自分を大切にするというのは、どういうことなのだろう。
そこからしばらく考え込んでしまって、まだ答えが出ない。

 

「自分を大切にしてくれる人を大切にすること」

 

これが、ひとつだけ、そのときにぱっと思いついたことだった。


とてもわたしらしい、と思った。
彼には伝えなかったけれど。

 

自分を大切にする、には。
大切にしたくなるには。

 

ああ、彼に何と言ったらいいだろう。

 


お、ぐちゃぐちゃしてきた。
ちゃんと吐瀉物っぽい。
ちゃんとってなんだ。

 

 

あの記事を、「弱音」ととった人もいたし
「綺麗にまとめたもの」ととった人もいた。
「開けっぴろげな叫び」だと捉えた人もいた。
「バトン」と言ってくれた人も。
あれだけおっぴろげられるのはびっくりだという人も。

 

そして、昨日と今日いただいた何通かのメッセージのなかに

「尊敬する」という言葉があった。

 

わたしの言葉のこと、わたしの文章のこと、
わたしの「がんばる」のこと、いまの、わたしのこと。

 

うれしい。でも、その言葉にあまりにびっくりしてしまって、あんまり飲み込めていない。信じられない、というか、信じるのがこわい気もする。

 

いかにぽんこつかを書いたら、尊敬すると言われた。
おもしろい現象だ。

人間っぽい。人間界っぽい。

 

自分を大切にするために、
まずは、もらった言葉を大切にしたい。

 

 

***

 

 


連鎖はめぐる。

 あるときから、そういう考えがわたしのなかに根づいてきた。

 

"Pay it forward" というのは、わたしが事あるごとに思い出す、好きな言葉だ。

 

文脈をガン無視はしないけど、すごい好きな人が本当にわたしによくしてくれて、色々教えてもらって、この感謝をどうしようかとぐあーってなっているときに、きみより下の子らに渡していけばええ。ぼくも若いときよう助けてもらってたから。と、よく言われた。

わたしに巡ってきた優しさや思いやりは、手渡してくれたその人が、きっとかつて、近くにいただれかから手渡された、数知れぬ想いなのだ。

それを日常で感じるようになってから、だれかにそれを手渡されるとき、申し訳なさよりも、心の奥から湧き上がる感動が、感謝の気持ちとともに感じられるようになった。

 

すごい世界だ、と。

 

この世界の、めぐり。
昔からつながってきたもの。はるか彼方からつながってきたもの。
いつか、どこかに、だれかにつながっていくもの。

 

そういうものに、どうしようもなく、心が惹かれる。

心が惹かれる。か。

 

わたしがわたしのときめきを感じること。
ときめきを得られない原因があれば、取り除くこと、ときめかないもので埋めない、ときめかないものから離れること。 

いまわたしが必要とするのは、こういうことである気がする。

 

それで、ここ最近の、空白で、それをするチャンスやヒントが転がっている。
いやちがう、そういうものをすっと差し伸べてくれる人が、何人もいる。

 

感謝、とか、ありがたい、とか、言葉にしてしまうと、なんておとなしくなってしまうんだろうか。

もっと暴れた、重たいマンホールをふっとばすような、
もっと熱い、だっこした眠る赤ちゃんの体温のような、
全然、全然おとなしくない、感情なのに。

 

すごい世界だ。

 

 

と、いうぐるぐるを、どうでしょう、洗わずに、整えずに、校正せずに、垂れ流して置いてみています。


わたしを「どろんこまみれ」だと思ってくれていたなら、それでも好きだと言ってくれているなら、ものすごくぽんこつの、本当のわたしをちゃんと見てくれているということじゃないか。

なんだかいろいろありすぎて自分を忘れてしまった、
それでもたぶん、まわりの大切な人たちは見抜いている。

 


昨日の記事の写真に、

「あまりにもさとみの面影がありすぎてわたし今泣いてるんだけど…」 

と、今朝、連絡をくれた友達がいた。

 

家族だ。よくわたしたちはそう言い合うけど、この言葉をもらったとき、ああ、やっぱり家族だと思った。

一時の恋愛感情のように脆いものではない、一人の人間をまるっと認め、それでも好きだと、軽いやわらかい紙でふわっと包み込むような。

わたしがどうこうではない、血がつながっている以外に何があるんだ。という、揺るぎなさ。それでも一緒に生きたい、生きるんだぞ、という、強さ。

 

「赤ちゃんの吐息、お母さんは聞き逃さないし、すごくすごく愛おしいものだよ」
と言ってくれた人もいた。わたしは子どもを産んだことがないからわからないけれど、これを読んだとき、赤ちゃんのにおい、ミルクと汗とが混じった、何とも言えないやわらかいにおいがして、それをこの上なく愛おしそうに見つめるお母さんの姿がはっきりと目の前に浮かんだ。しっかりした体験と感覚の言葉だと思った。すごい衝撃だった。


ああ、これ以上言葉に変換してしまうのがもったいないと思うほどの気持ちだ。

言葉は限界を持っている。けれど、このふわっとした心を、手にとって見る形にすることができる、とても優秀な、媒体。

頼ってみても、いいかもしれない。


生まれてから抱えてきたこの身体を、今も続くこの心臓の鼓動を、微かでも続く呼吸を、そこから出てきた言葉を、いま、聞き逃さないでいてくれる人がいるということを、聞き逃さなかったよと伝えてくれる人がいるということを、確認するために、忘れないために。

 

この文章のなかで、まわりの人の言葉や話が占める割合、だ。
ほとんどだ。でも、これが、とても「わたし」なのだ。
だれかの「生」が、「時」が、蓄積してきた。
25年前にこの世に生まれた、まっさらな「生」に。
これからもきっと、世界のめぐりの一部として、それは、存在する。存在したい。

 
 

こうしてまた8000字を書いた、いや「出した」ところで、一度、だれかの目に触れるところに置いておきたい。 


前の文が「綺麗すぎる」と言って、昨日、会って話をしてくれた彼は、

将来不安かもしれないけど、そんなにひとつのことに夢中になって輝いている人を、人は放っておかない、と言った。

 

そして、彼が最後に微笑みながら言った言葉に、どうしても心が動いて、声が蘇るとまだ涙ぐむ。文脈をガン無視するけどわたしはこの人もどうしようもなく好きだ。

 

ちゃんと大事なもん持ってるじゃん、

大丈夫だよ、その時々で、チャンスがあったり、引っ張ってくれる人が現れる。

 

手の鳴るほうへ、じゃないけどさ。

 

 

 


ママが作ってくれたドレスに身を包み、カメラを向けられてとりあえず「かわいいのポーズ」をしていたあの頃のわたしは、わたしのなかにまだちゃんと生きている。

自分じゃあどうしようもないときも、泣きじゃくっているときも、どこかでだれかが叩いてくれる手の、あの、体温のぬくもりを含んだ空気の振動に、ちゃんと導かれてここまで来た。

おんなじ心臓のままで、吸って吐いて、が続いている。

 

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かわいいのポーズ #wheniwasachild

 

ずっと、この身体で生きている。