Let me raise you up!

 

すこし時間が経ち、肩の力が抜け、勉強をしたり動いたりがあまり苦でなくなってきた。

色々な理由があるけれど、日々、様々なものを目にしながら、感情と向き合い、思考を巡らす。書くことが追いつかないほどに。それでも書かずにいられない。この作業で、カオスな自分の何パーセントかだけでも、わかりたいと思っている。

ただ、以前のように身体が頑丈にエネルギッシュにぱきぱきと動いてくれない。


そんなに予定を入れられないなあ、もう若くないなあ、と思う。

だから、「選ぶ」ことがものすごく大事なんだなあ、と。

たとえそのひとつの行動が、ものすごくこわくても。

 

 

***

 

 

わたしにとって、英語は音楽だ。


耳に入る音の心地よさ。

日本語にはない発音の美しさ、艶めき、潤い、柔らかさ、爽やかさ。
それにすっかり魅了されてしまっている、という感じがする。

ちいちゃい頃から英語の歌が好きだった。幼児向けの英語のCDやカセットをシャワーのように浴びていた気がする。自分の言葉と異なるリズムを持つその音に、たまらなく胸が躍った。だから、ちいちゃいわたしは絶え間なく歌い続けていた記憶が残っている。
そしてそれは、今でも変わらない。

好きな曲はあるけれど、基本的にどんな洋楽でも、特に英語の発音がクリアに聞こえるものは、胸の奥がたまらなく、きゅん、とする。

だから、わたしの英語好きはたぶん、ただ、異常に音に反応しているこのときめきからくるのだ。読み書きよりも、聴いたり話したりが断然好きだ。英文なのにこんなこと言うと、怒られそうだけれど。

もちろん、英語で表現された作品を、英語という言語そのものを勉強していくなかで知った魅了も、計り知れない。高校英語では文法や構文を深く読み込み、分析し、パズルのように言葉を読み解いていく面白さを知ったし、大学では英語で書かれた文献の多さ、というより、そもそも日本語で書かれたものが、世界中の情報のほんの一部であることを知った。違った世界の、違った思考や視点を持つ人たちの描く物語の世界にも魅せられた。

それでも、英語の「音」そのものに対する、理由のないときめきは、ずっと変わらないものだ。楽器の「音」へのときめきと、さほど変わらない。豊かな笛の音を出すことと、美しいと感じる英語を発音すること。そしてそれにメロディがのれば、もう最高。心の底からうっとりとしてしまう。

言葉と旋律、メロディ。 

一見、まったくちがうように見えるこれらのなかにある、「音」という要素。それが、いまだに胸をつかんで離さない。

 

中学で吹奏楽部に入学したのも、きっとそのせいだ。
入学式で聴いた「生」の楽器の音に一瞬で魅せられ、気づいたときには入部していた。
全国に行くような部だとは知らなかった。船に乗ってしまったわたしは、毎日朝から夜まで夢中になって練習し、指揮棒で叩かれ殴られながら必死で音を奏で、普門館の舞台に立った。
ストレスで体調を崩して倒れたりもしたため、その時代の話をすると父親は顧問の先生の暴挙を思い出して機嫌が悪くなる。それでもわたしは、音に本気で向き合ったあの三年間はわたしにとってものすごく大事な土台だったと思っている。今でもあの合奏を夢に見て、冷や汗で目覚めることがあるにもかかわらず。

 

というわけで、わたしにとって、音楽はどうしても身体に染みついているものだ。

そして、英語は音楽だ。

 

なぜこの話を書いているかというと、カナダから来ている女の子と友達になり、それこそ「生」の英語に触れたからだ。先日会って、意気投合し、カフェで何時間も話し込んだ。そこからカラオケに行かない?と言われ、一緒に歌いまくったのが、単純に、楽しくて幸せな時間だった。

わたしは今まで、英語を母語とする友達がいなかった。

英文とはいえ、大学には留学生はいないし、日常で話すのは教授たちだけ。学部の頃に英会話の練習で通った一番安い国際交流パーティーでも、危険な目には何度も合っても、仲良く遊べる「友達」はできず、結局行かなくなった。日本語を教えている生徒にも、授業では当然ながら、必要なとき以外は日本語で話している。

だから、英文なのに、ネイティヴの先生の授業以外で、英語を練習する場がほどんどなかった。院に入ったら、ネイティヴの先生と学校ですれ違うときくらいしか使えない。ただ、彼らは「おとな」の「先生」だ。いちいち細かい間違いをしてやいないだろうかと気にしなくてよい、普段のごく簡単なおしゃべりができるような、「対等な友達」がいないのだ。

語学留学したって、世界中に「第二言語が英語」の友達はできても、ネイティヴと触れ合う機会はホストマザーや先生、店員くらいしかない。

英語という言葉を勉強しているのに!ああ切ない。(一応ここにはわたしが貧乏学生であるという前提があります。お金を払えばもっと機会はあるはず。)

そんななか、先日主催していた地域のイベントで、なんと日本語を勉強中の彼女・フロム・キャナダと出会った。その場で軽く通訳をし、対話のお手伝いをしたのがきっかけで、会うことになり、研究や将来の話をした。

わたし自身、最後にイギリスに行ったのから一年ほど経っていたのもあるだろう。まず英語が話せるのが楽しすぎるし、彼女の話すCanadian英語の発音の美しさに胸はときめくし、しかも予想以上に気が合って、今考えていることや感じることを共有できたのが、嬉しかった。

つまり彼女は、英語の美しさやそれに対するときめきの感覚を思い出させてくれた。

しかもそれが、お茶してお話したこと、くらいじゃなく、大好きな英語の歌を好きなだけ、しかもいっしょに歌いまくる、ということから。

 

ひょんなことで話題に出たTop of the worldは、小6のときにサンタさんがくれたアルバムに入ってリピートし続けた曲。わたしが生まれて初めて歌えるようになった(幼児用じゃない)英語の歌だ。彼女の"Everyone knows"という言葉からも、英語圏での(日本でも、だが)この曲の定番さが分かる。

彼女の歌ったBad dayは中2のときの英語の授業で歌った。いきなり流れたイントロにびっくりして泣きそうになった。大好きな歌だ。

そして、Part of your worldは、同じく中学のとき、You Tubeが使えるようになった頃、歌詞を調べてノートに書き、ひたすら何度も歌って練習した。家でよく歌うのに、彼女と二人で歌ったのがとても嬉しくて最高に気持ちよかった。

同じくディズニー好きな彼女が選んだのは、私が最近一番はまっているReflection(ムーラン)とLet It Go(アナ雪)だった。

 

そして、わたしの一番すきなBUMP OF CHICKENの「天体観測」を、彼女はもともとカナダでの学生時代から知っていた。まさか、この曲をいっしょに歌うという状況になろうとは!

 

どの曲も。

 

どの曲も、だ。

ふたりで楽しく歌いつつ、自分の唇と声がなぞる歌詞が異常なほど身体に染み込んできて、何度も泣きそうになった。

 びっくりするほどに、どんぴしゃだった。

 

Reflectionの歌詞を、ここに載せておきたい。

翻訳はわたし。

 

Look at me
You may think you see
Who I really am
But you'll never know me
Every day
It's as if I play a part
わたしを見て
あなたは思うかもしれない
本当のわたしを見てるって
でもあなたは知ってなんかいない
わたしは毎日
役を演じてるようなもの

 

Now I see
If I wear a mask
I can fool the world
But I cannot fool my heart
わかったの
仮面を被れば
みんなを騙せる
けれど自分の心はごまかせない

 

Who is that girl I see
Staring straight back at me?
When will my reflection show
Who I am inside?
目の前の少女はだれ?
まっすぐと見つめ返す
いつになったらわたしの姿を映すの
本当のわたしを

 

I am now
In a world where I
Have to hide my heart
And what I believe in
But somehow
I will show the world
What's inside my heart
And be loved for who I am
わたしのいる世界は
自分の心を
自分が信じることを
隠さなきゃいけない
でもすこしだけ
さらけ出してみたい
わたしの胸の内を
わたしのままで愛されるために

 

There's a heart that must be
Free to fly
That burns with a need to know
The reason why

この心は絶対に
自由に飛び立つの
熱く燃えてゆくわ  教えて
その理由を

 

Why must we all conceal
What we think, how we feel?
Must there be a secret me
I'm forced to hide?
I won't pretend that I'm
Someone else for all time
When will my reflection show
Who I am inside?
When will my reflection show
Who I am inside?
なぜ隠さなければならないの
考えること、感じること
わたしの秘密を
隠し続けなければならないの?
この先ずっと
誰かを演じるなんていや
いつになったらわたしの姿を映すの
本当のわたしを

 

 

あまりに不思議な日だったから、その日はなかなかどきどきが収まらなかった。長くいっしょにいたから久々に脳内が英語で、とっさに出てきそうになるのは英語、そこから日本語を探すという状態で、数日を過ごした。この感覚がフェードアウトしていく寂しさ、虚しさったらない。保ちたいけど、難しい。


しばらくなかったときめきを思い出させてくれた彼女には、本当に感謝している。

そして、あの場に彼女を連れてきてくれた方にも。

不思議なことに、最初の記事にメッセージをくれた方だったということに、さっき気づいた。

ね、なんか、繋がっている。

 

そうやって、わたしたちは、なにかの循環を持っている。

わたしたちの、続いた悪循環が、ふとしたきっかけで、いい循環になる。それも、風に吹かれて転がっていく木の葉のように。ころころっと、あらゆる方向に自然に舞いながら、まわり、巡っていく。

 

生きていると、どうしてこんな辛い世界で、どうしてこんなわたしで生きていかなきゃいけないんだと思うときもある。

人という生き物は、どうしようもなく、不安定だ。

この世界が悲しくて悲しくてしょうがなくて、何もかもがわからず、投げ出して逃げ出したいときもある。

それでも、生きていると、生きていてよかったと思う瞬間がある。

ありがとう、というメッセージが目に映る瞬間、すくなくともわたしはそう思った。だからちゃんと、伝えたい。

 

 

ありがとうのめぐりを

ぬくもりの循環を

 

生きているわたしたちは、つくり出せる。

 

 

 

***

 

 

 

あれは前回の記事だったか、前々回だったか、わたしはこう書いた。

自分を大切にするにはどうすればいいか、という問いに対して、自分を大切にしてくれる人を大切にすることではないか、と思う、と。

 

 

時間が経つにつれ、変わってきた。

わたしはなんて人から見られる自分を意識しているのだろうと思った。

自分を大切になんかしていなかった。大切にしてもらえる人をさがしていた。

むこうから来たら拒まなかった、うれしいから。そこにしか自分の価値を感じる場所がなかった。内側でなく外側に、自分を見てくれるだれかを、自分自身を、さがしていた。

そういう生き方が、感覚が、染みついている。奥の奥まで。しつこく、こびり付いている。

 

たとえば、わたしは公共の場で本を読むのが苦手だ。夢中になってしまえば五感はほぼゼロまで閉ざされ、他のことが感じられなくなるけれど、その前にもっと重大な問題があるらしい。

その問題が、「他の人の目」にある、と気づいたのは、ついこの前だ。

なぜ読めない本と夢中になれる本があるのかと考えたときに、夢中になれる本にはある特徴があることがわかった。

ある程度読み進められている本だ、ということ。

つまり、だいたい全体の量の三分の一以下までしか読んでいない本は、まだそれしか読んでいないことが恥ずかしくて人前で読めないらしいのだ。

これに気づいた瞬間もそうだったが、ここで言語化して、今わたしは、背筋がぞっとした。

なんなんだこの「わたしの感覚」は。恐ろしい。

理屈としては、電車で誰かが読んでる本がまだ読み始めかどうかなど気にする人はいないということはわかっている。本を読むには初めの1ページを開く、そのプロセスの必要性があることも。

それでも。それでもだめなのだ。頭と心は違う。なぜこんなに恥ずかしく感じているか、わからない。まだこの本の内容が把握できていないことが、経験できていないことが悔しいのだろう。そういう自分の存在が許せないのだろう。

ほう。すごいことだ。ここまでこびりついた感覚があるとは、自分でも驚いたし、それ以上に、どん引きしている。

 

このようにわたしは、人の目を、いや、人の目に映る自分の在り方を、ここまで気にしているということに、やっと気づいた。

 

だから、自分を大切にする、がわからない。

だれかに見られる自分を大切にする、そのために、自分を見る「だれか」を大切にすることしかできなかった。わたしにはその答えしか出せなかった。

 

けれど、いま、ふと思ったことがある。

自分を大切にするということは、

なにかをするのではなく、なにかを、しないこと、なんじゃないか、ということ。

 

わたしたちは、なにかを「過剰に」しすぎてはいないだろうか。

この世界は、それはそれは「過剰」だ。もっとフィットする表現だと、too muchだ。

もう、too muchだ。疲弊するほどに。

 

でも、きっと、わたしたちはそんなに多くのものを大事に抱えることができない生き物だ。

大切にするのは、ひとつだけでじゅうぶんだ。

 

真ん中のひとつ、ひとつにとことん向き合うこと。何かを失っても自分のなかに保つことのできる「なにか」。これが大事なんじゃないか。それを知ること、わかること、問い続けること。きっといつか、失うことが怖くなくなる。

そんなようなことじゃないかと、感覚的に言葉を並べてみる。簡単でない。簡単でないよ、自分を大切にする、というのは。

勇気も優しさも、知恵も時間も、経験もパワーも、鈍感さも、ものを忘れる力もいるだろう。

 

そう、失っていくこと。

 

身ひとつになったとき、もしかしたらわたしたちはわたしたちを大切にできるのでは。

そんなことを思う。 

 

また考えは移っていくかもしれない。けれど、わたしはいま、そう、書いてしまう。
不可抗力、ってやつかもしれない。ちょっとの力で抗えないほどの、わたしのなかのなにか、のせいで。

 

 

***

 

 

先日、わたしの中にもういっこ、変態を見つけた。

筆跡、サインにどうしようもなくときめいてしまうこと、だ。

だってねだってね,

 


シェイクスピアディケンズなどのサインだ。
はるか昔、違う国に、しかも400年も前に生きていた人なのに、歴史上の、もう本のなかにしか存在しない人なのに、文字を見た瞬間の「生きている感」がすごい。
どきどきする。そわそわする。

たとえ数百年前であれ、今わたしが息をしている時間軸の延長線にペンを走らせていた、あるのはほんのすこしのズレだけなのだと気づかされる。

その人の、その人だけの筆跡。紙にペンを滑らせる瞬間のスピード感。筆づかいのリズム。

いま、筆づかいと打って、習字をやってきたことに関係するのだろうか、とふと思う。

書には、書く人の人格が現れる。小学校の幼馴染がそう言っていた。わたしの字が、好きだと。

なぜだかわたしは、だれかの書いた字を目にすると、その人の筆の運び方、呼吸のリズム、想い、いろんなものが自分のなかに一気に流れ込んできて、なんだかその人がたまらなく愛おしくなってしまうのだ。
よく考えたら、生徒の字に対してもわたしは、同じ感情を抱く。授業も好きだけれど、ものすごく近い距離で彼らの書く字を目にし、説明しながらそこに直しを入れたり思いっきり丸をつけてあげたり。
ああもう、なんて楽しい仕事なんだ、と思う。嘘じゃなく、わたしは毎時間、そう思っている。幸い少人数のクラスなので(生徒よ増えろ〜)一人ひとりに徹底的に向き合える。どの子もまだ小さな身体で、懸命に考えて、問題を解いていく。さらさら解いてしまう子もいれば、一問にものすごく時間がかかる子もいる。学校のノートの端っこに鉛筆のぐるぐるや落書き。好きな曲の歌詞。自分なりにその場を、その時間を生きる。我慢も覚えた。いくら楽しくても、自分勝手に友達の邪魔はしない。たまにしちゃうけど。塾の居心地が良くなって、勉強の習慣がついてきた。わかったときの目の輝き。悔しさも喜びも全身で表現。
なんなんだ、あの生きものたちは。とにかく、可愛くってしょうがない。

話が逸れた。

もう一つ、ぱっと思いつくわたしの筆跡好きの理由がある。
父の影響だ。父に数学を教わるようになったのは、中学あたりからだろうか。いや、もっと前にも教わったことはあるはず。父に勉強を教えてもらうときは、必ず白い紙とペンがある。父は説明しながら、そこに少し丸い数字を、すらすらと、整然と並べていく。今思えば子どもに算数を教えるプロなわけだから、その技術に憧れることは特別じゃない。わたしがどんな問題を質問しても、かならず、慣れた手つきで綺麗な図形や式を書き、分かりやすい説明をしてくれた。直線はすごく真っ直ぐで、円もコンパスのよう。罫線なんてないのに字と空白のバランスが美しい。常にそうだった。

そんな父のペンの動きや字をいつも見ていた。きっとそれも理由として大きい。
思えば中学で初めて好きになった子も、そうだった。中学生なのに高校の数学を鬼のように解く(父の口癖)、ずば抜けて頭のいい子だった。紙の上にすらすらと式を重ねていく姿にときめいた。いやむしろそれだけだった。我ながらそれもすごいな。怖いな。
トップ校は目指さず、近いからという理由で少し高めの高校に行くクールさもかっこよく見えた。
よく、フェチとか言うのが、今までかなり謎な概念だったけれど、これは完全に「筆跡フェチ」的なものかもしれない。気づいてしまったー。
すごい、こんなの、初めてだ。我ながら、気持ち悪い。なんかもう、変態感がすごい。今まで知らんかったけど。
でも、しょうがないよねえ。理由なくときめくものは。
ここにおっぴろげておきましょう。

たぶんわたしに手書きのものを渡すと、普通の人より長い時間じっと見ているはずです。気持ち悪かったら、その旨を伝えていただけたら幸いです。

 


***

 

 

昨晩、ある方に最高のミュージカルに誘っていただいた。

ブロードウェイミュージカル、Kinky Boots(キンキーブーツ)の来日公演だ。

前から数列目なんて、今まで、Londonでもあんな席で観られたことはなく、席に座った瞬間から泣きそうだった。結論を言うと、あれほどに号泣したミュージカルはない。

性の境のあいだで本当の自分のありかたに葛藤しながらも、夢中で力強く生きるローラの美しさ。

男性と女性のいいところを詰め込んだ、そんな区別なんて心底ばかばかしくなるような、素晴らしい歌とダンス。人間の身体とリズムが生み出す、ものすごいエネルギーとパワー。圧倒されるばかりで、鳥肌の中に爆笑と号泣が入り混じって、あの劇場全体がとても不思議な空間だった。理由なんてなかった。あの場にはプラスの空気しかなかった。

スタンディングオベーションと熱狂の拍手が、ずっと、本当に長いあいだずっと鳴り止まないことにも涙が止まらなかった。

伝わるもの、って、すごい。

あんなに溢れる力強さに心を動かされない人間はいないのだ、と思った。

 

人間は不安定だ。どうしようもなく不安定だ。
それが自分だけでないことが、いま、よくわかる。
女装をするローラの突き進む様子はかっこいい。けれど彼、いや彼女、いや彼も、葛藤がないわけではないのだ。
誰だって弱い部分を抱え、ときにはこわいことも隠し、戸惑いながらも自分自身を奮い立たせて、その足を進める。
ローラとチャーリー、そして工場の仲間たちは、弱くも力強く踏み出す、その美しい足に、とびきり美しい靴を添えていく。
"beautiful"という言葉がこんなに似合うことがあるだろうか、と思った。

 

人は弱いものだ、という、そんなあたりまえなことも、主観と客観の狭間に迷い込めば、よくわからなくなってしまう。
生きることは、非常に、疲れる。

 

どうがんばってもほどけない、このこんがらがった思考にまぶしい光を燈してくれるのは、音楽やリズムの心地よさや、その「理由のなさ」かもしれない。

 

リズムに乗って勝手に動く身体にすべて任せて、汗も涙もいっしょくたになって、踊ってしまおう、と。

人生って、そういうものかもしれない。

 

 

***

 

 

あたりまえだけれど、

 

サインを書いた彼らは、下手くそだとか、気持ち悪いだとか、言われると思っていただろうか。

そう思われると思ってサインを書いているかもしれない。

それでも、彼らの筆跡であることには変わりない。

嘘の字って、あるんだろうか。その人がその人なりに、自分の名前を書くその瞬間、どんな嘘も吹き飛んでしまうのではないか。

 

自分の「好き」を掘っていくこと、考える力、を山田ズーニーは語っていた。
こういうこと、なのかなあ、と考えている。

 

わたしは根っから人が好きだ。
だから、その中身が垣間見える、人の「字」が好きだ。

"cannot fool my heart"、なのだ。
嘘はつけない。だれかにも、自分の心にも。

 

未来に思考を繋げていくことも大事だけれど、もしかしたらそれと同じくらい、過去に繋げていくことも必要なのかもしれない。

わたしの「今」の中身をちゃんと知るために。

ひょんなタイミングで、いいめぐりを生んでいくために。

 

みんなして、不安定さと弱さと疲れとをひとつの身体に秘めながら、失敗も汗もしみるけど薬にしてぬりたくって、エネルギーを振り絞って、「共に」生きよう。

おなじリズムに乗って、芸術的に。舞うように。

 

 

 

 

ローラは最後、力強くこう歌う。

 

 

If you hit the dust,
Let me raise you up!

 

「あなたが崩れ落ちそうになったら、あたしが手を貸すわ」

 

 

 

 

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*1

 

 

ずっと、この身体で生きている。