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ふてぶてしく、軽やかに。

 

いろんな人に会うたびに「痩せたね~!」と、あまりに毎回言われるので、たぶん、やつれたんじゃないかなと思っている日々。 

 

ほんでも、世界がぐるっとする出来事があり、自分の状況がまるっと変わった。

ここ数日の外から見たわたしはたぶん、痩せた、いややつれたにプラスして、だいぶ違う人になっているんじゃないかな、と、想像。

 

 

わたしはとても、人に気を遣わせてしまっていたみたいだ。
たぶん、自分が気を遣っていたからだ。無意識な我慢。でもそれもあるきっかけで終わった。
というか、2016年に入った頃からそうなっていただけだった。
明らかにそうわかる。

 

期待に応えようと無理し、それが限界になり、余裕がずっとなくて、孤独におびえて、おまけにだれかをまるっと信じられなくなって、 がれきの前で立ちすくんだ。

そのすべてが「報われた」と思えるような出来事が、数日前にあった。

 

11月1日の15時すぎ。

やっと、生きていてよかったんだと思えた。

 

お世話になっている児童文学の先生に背中を押され、
大好きな大学院生の先輩に紹介してもらい、
一橋の大学院にいらっしゃる先生に、会いに行った。

結論は、彼のところで研究させてもらうことになった。

もちろん院試があるので完全に確定ではないけれど、絶対に受かろうと思っているのでもう確定と言っていいと思う。

それくらい、世界が、人生がぐるっと一回転するような、出会いだった。

 

 

***

 

 

この人と離れたくないなあ、と、思う人がいる。
この人じゃなきゃだめだ、と、思う人がいる。

想いが強すぎて、つらくなるくらいに。

 

同時に、もう、結婚とか、恋愛とか、べつに、しなくていいなと思っている。
もちろん、それらの魅力は十分わかるし、そこから人は、あまりに多くのものを学ぶことができる。
特定のひとり、と、とことん向き合うこと。ぶつかって許しあって、この先ずっと手をつないで生きていけるかを考える。あんなに深い人間関係をつくるのは、なかなか難しいと思う。
けれど、恋愛や結婚を含めた人間関係は、もっともっとスケールの大きいものだと思う。自分を承認し、求めてくれる存在がいることは素敵だ。無条件に人に、幸福感と自信を与える。生きていく上で、自分にないところを補い合う存在がいるのも素敵だとは思う。
長女であるが故(これはもう絶対!)の「甘え慣れてなさ」と「認められたさ」と「甘えられる存在と認めてくれる存在の中毒性」を知っていながら、いまたしかに思う。

わたしはもっと、もっとたしかな関係を、知っている、と。

恋愛や結婚みたいなことは、この世界に起こるいろいろな事象のなかで、ものすごくちっぽけなものだ、と。まあ、当たり前なことではあるけれど。そこに執着などしてしまったら、自分の生きる世界を狭めてしまう。
もちろんそういったことに価値を求めることも素敵だと思う。深い場所に見つけられる輝きはあるから。

それを分かった上でいま、この人と離れたくないなあ、この人じゃなきゃだめだなあと、思う人を、自分のもとにひとりじめしたら、わたしはすごくもったいない気がするのだ。
素敵なことかもしれないけど、なんかちょっと違うと、そう思うのだ。

 

わたしは身近な人に、どうしても想いを共有したいと思ってしまう人間らしい。
その共感が、深い場所なら嬉しいけれど、どんなことでも、だれかに伝えたくてしようがないのは、身の回りで起こることが、あまりに、too muchだからだと思う。

循環させたいのかもしれない。
いろんな循環の中で生きている感覚があるから。

ひょっとしたら、だれか特定の近くの人を決めてしまったら、その循環が、滞ってしまうかもしれない。そんな感じが、しなくもない。

 

好きだと思う人と、時間を過ごしたい。

よかった、気持ちはちゃんと動いている。やっと動き出した。

 

恋愛に限らず、好きな人のことを考えると、びっくりするほど、心が澄んでしまうのだと知った。

そういう人に出会えるから、生きていることには、希望がある、と思う。

 

 

BUMP OF CHICKENの、藤原基央、藤くんが書く歌詞が好きなのは、曲が「恋愛もの」ではないからだ。

もちろん恋愛とも読んでもいい。そう聴いてもいいけれど、彼の詩は、そんな陳腐な狭い場所に留まるものではない。もっともっと本質的な、おそろしいほど深い場所の、話をしている。

 

終わりまであなたといたい
それ以外確かな思いが無い
ここでしか息が出来ない
何と引き換えても 守り抜かなきゃ
架かる虹の麓にいこう
いつかきっと 他に誰も いない場所へ

 

「ゼロ」の歌詞。暗めの曲調から、このサビで、光を求めるような旋律へと変わる。

まわりに誰かがいる今だけど、いつか命が尽きて、まわりに誰もいなくなる日が、たしかに来る。
わたしは、その意識がずっと抜けない。その意識と、人の奥の奥を知りたい、つながりたいという想いは、表と裏のように在る。

 

怖かったら叫んで欲しい
すぐ隣にいるんだと 知らせて欲しい
震えた体で抱き合って 一人じゃないんだと 教えて欲しい
あの日のように 笑えなくていい
だって ずっとその体で生きてきたんでしょう


わたしは、この距離感で、人を知りたい。
自分とちがう、でも、自分に似た、ひとつの命を、無数の命を、体温を知りたい。
数十年後、この命が尽きるまで。

 

 

 ***

 


先日、ある懇親会にて、今まで悶々としていた自分の話、悩みを聴いてもらった。

いつもは主催者側だから、参加者が一番楽しい状態でいられるようにしなきゃいけない、みんなの話を聴かなきゃいけない、そういう意識で臨んでいた。それは当たり前のことだし必要だと思うけれど、かなり「我慢」をしていたことに今更気が付いた。

初めてと言っていいくらい、あの飲み会の場で、自分の話をした。聴いてもらう必要があった。頑張って笑う余裕がなかった。

聴いてもらっているとき、ありがたいなと思うと同時に、こんな自分の話を聴いてもらってしまっている、それで時間を奪ってしまっている、その申し訳なさに押しつぶされそうになっていた。それはそれは辛かった。聴いてもらってうれしいのに辛い。その矛盾する感情はたしかに同時に存在しうるのだ。

そんななかかけてもらった言葉に、まるっと救われた。

「過去の自分を否定しちゃいけない。」

そうか、当たり前のことだけれど、そういう方向に行きかけていた。危ない危ない!
だれに何と言われようが、今までのわたしの25年間は否定しちゃいけない、否定できない、それにはこれっぽっちの真実味もない。

まっとうに、まっすぐに、ちゃんと生きてきたのだから。

そして、そのあとほかのみんなの話を聴いた。
思ったよりみんな、ゆらゆらしていた。ちゃんと、悩んでいた。悩んでいるよって、弱いよって、そういうところ、ちゃんと、共有したいと思った。共有できて、うれしかった。

 

ずっと、不完全であることを承認できないわたしだった。
頼れないこと、助けてが言えないこと、我慢すること、全部そこにつながっている気がする。
それをわかっているように、文章を送ってくれた人がいた。
自分だけでひとりじめしたくないから、ほかにも個人的に送り付けている人はいるけれど、ここに載せる。

 

www.webchikuma.jp

 

こんなにやわらかい文章にしてもらうと、すっと入ってきてしまう。


いつだって、言葉をもらうのは、ありがたいことだ、だからちゃんと全部受け取って、吸収して、よりよく実践していかなければ、と思っている自分がいた。たしかに無意識に、とても「いい子ちゃん」な方へ、方向づけている。おまけに欲張りだ。そしてどこまでも我慢する。本当は、困ってしまって、どうしようもなくっても。

 

不完全さを承認して、肯定して、努力していくこと。
いや、努力なんて、したければすればいいのだ。
前向きに努力しなきゃいけない、と、どうしても方向づけたい、わたしの無意識のなかにある強迫観念は、もうそろそろ引き下がっていただきたい。不完全さを承認するのを邪魔しているのは、わたしのなかの完璧主義や「いい子ちゃん」や、評価へのこだわり、だ。

「ふてぶてしく」とか、「居直る」とか、わたしの人生に無縁と言っていいような言葉が、ちゃんと胸を叩いてくる。 高校時代にしてくれた話の雰囲気と同じだ。絶妙なセンスの言葉が、ぐいっと中身に引き込む。

 

 

かの千葉雅也がみずから認めているのだから、

わたしも不完全でいいのだ。

 

とどめの一撃、だけれども、とん、と背中を押すようなやさしさが、体温がある文章だった。
そんで、送ってくれた人はさりげなく、いつもそういうことをする。

 

 

***

 

 

悪とされるものが、悪のように感じられるものが、どうしてそう見えるのか、どうしてそう捉えられるのか、その奥にあるものをちゃんと見つけたい。自分の手でつかみたい。そう思ってきた。


単純にそうすると、怒るとか、いらいらするとか、そういう気持ちがなくなってくる。たぶんわたしはそうやって生きてきたから、怒る、みたいなことと距離がある人生を送ってきた。
でも、あながちずれてはいないと思う。なぜなら、そういう目を、精神を養うことが、学問をするということの延長にあると思うから。

だから、ああ、この人はどうしてこんな風になってしまったんだろうか、と、その人の背景まで捉えて理解する。たいていの場合、理解できる。
まあでもその前に、気持ちで全力で受け止めるがために、ほとんどの場合、すぐ混乱して、ダメージを受ける。ほかの人にとっては些細なことでも、気にしないということが、自分でもびっくりするほど難しい。冷静になって、時間が経てば、ようやく考えられるようになる。心から頭へ。頭から心へ。その時間が短くなることが、おとなになるということ、なのかもしれないと思う。でもそれは同時に、「感じる」という鋭敏さが欠如していくことだとも思う。だから、まあ、いいや、これがわたしだ、ダメージを受けようではないか!と、思う。かかってこい!と。

 

でも、本当に危ないと思うから、洗脳だけはされないように気をつけたい。

そう、セーフティネット
危険な人からは離れ、守ってくれる人からは離れないように。

 

わたしは、わたしを傷つけ、けなし、粗末に扱う人から、わたしを守らなければならない。

あなたは、あなたを傷つけ、けなし、粗末に扱う人から、あなたを守らなければならない。

悲しきかな、この世界にそういう人はいる。
そしてきっとこれからも、そういう人に出会うだろう。
わたしは、流された涙に寄り添って、その涙が来た場所をまっすぐ見つめたい。守りたい、と、思う。


この間先生に、あなたは人を見る目がないと言われたけれど、それは無条件にみんなをいい人だとほんとうに信じているからだ。
それは、一見よいことのように思えるけれど、全然よくない、自分を大切にすることの、逆なのだ。

わたしは、わたしを本当の意味で大切にしてくれている人を、ちゃんと見極めなければいけない。この人と一緒にいたいと、わたしがほんとうに思うのかどうか、立ち止まって考えなければいけない。我慢をしてはいけない。いつか、自分が壊れるから。

それが、自分を大切にする、ということなのだ。
それが、自分を守る、ということなのだ。

 

だれかにコントロールされてはいけない。
だれかをコントロールしようとしてはいけない。
わたしの可能性を摘み取るようなことは、だれからも、されてはならない。
だれかに否定されても、わたしはわたしを、否定してはならない。

承認、というのはきっと、人が生きるために最低限、しなければならないことだ。
自分が、自分を、承認すること。

 

わたしは、その一橋の先生と出会って、今まで考えてきたこと、やってきたこと、全部が間違ってなかったんだと、やっと思えるようになった。
わたしの研究が面白いと、必要だと言ってくれる人がちゃんといた。
人類に貢献できる、とまで。


人生が変わるとはこのことだ。

部屋を出て、いま何が起こったんだ?と考えて、整理できたとき、実感できたとき、出てきた言葉は、

「ああ、ありがとう、神さま」

という言葉だった。


単純につらかった。ファンタジーなんかやって、と言われてきて。英文学の枠では肩身が狭すぎた。


でもいま、その枠を超えられた。

 

 

そうだ。必要なときに必要な人に。ちゃんと辿り着ける。
それも、用意されているように。

さとみは神さまに守られてるから大丈夫なんだわあ、と、友達は言った。


先生に出会えた。道が開けた。

 

 

どうしてこんなに、飛び跳ねたいほど、救われた気持ちなのか、と考える。


たった一人、一橋の先生が、わたしの研究を面白い!と言う。そのことは、決して大袈裟ではなく、今までわたしが過ごしてきたすべての時間をまるごと肯定した。
こんなにも肯定する力があると思わなかった。思いがけないことだった。自分にぴったりの先生に出会えたことの単純な喜びではなかった。それ以上の、わたしは間違ってなかったんだ、よかったんだ、という過去への肯定と、これからやりたいことを捻じ曲げることなく続けていいんだ、続けられる場所があるんだという、未来への安心を、一度に受け取った。11月1日から時間が経つほどその気持ちはじんわりと染み込んできて、わたしはやっと、ちゃんと、わたしを好きになった。

今まで考えてはきたけれど、なかなか共有できなかったものを、もう一人、ちゃんと深い場所で共感してくれる人がいた。言葉になるのを助けてくれる人がいた。言葉になったらもっともっと、共有できる人が増えるかもしれない。いつか素敵な物語が描けるかもしれない。人類に貢献できる、という言葉をもらった。一人で悶々としていた状態からの、この広がり方は、とてつもなく、大きい。


自信には、いつでもちゃんと、根拠がある。
自分を承認できなくなるのには、理由がある。
わたしがわたしを好きでいる、そのために必要なものは、わたしがちゃんと揃えてあげなきゃいけない。
わたしがわたしを大切にする、そのことがいかに必要か、そのために何が必要か、もがいて苦しんで、ちゃんと「解る」こと。
いつか、報われることが、あること。

 

 

 

高校時代に出会ったわたしの一番好きな(好きだけじゃ済まない)作家、梨木香歩の、これまた一番好きなエッセイ、『春になったら莓を摘みに』のなかで、何度も思い出す箇所がある。

こういうことを、ずっと思って生きている。

 

そうだ

共感してもらいたい

つながっていたい

分かり合いたい

うちとけたい

納得したい

私たちは

本当は

みな

 

  

手の鳴る方へ。導かれてきた。

この、梨木香歩という人をはじまりにして。

網目状の模様をひとつひとつたどっていくように、人との縁を紡いできた。

 

今気づいたけれど、最初の記事からちょうど一カ月経った。

 

いままで以上にまわりの人のご縁に感謝しつつ、かといって申し訳なく感じることなく、「必要な人に、必要なときに」たどり着けるわたしを、そろそろ、褒めてあげたい。

 

ちょうど梨木香歩に出会うすこし前と同じくらいまで軽くなった身体は、

ずっと動きやすいし、ずっと、飛び跳ねやすい。

 

 

 

 

ずっと、この身体で生きている。