ちいちゃな人たち


先日、神宮外苑前で火災があった。
ほんとうにつらい。ほんとうにひどい、と思う。
あの痛みがしばらく消えていない。ずーんと重いものが、ずっと、胃のあたりに横たわっている感じがする。

 

先日、すぎなみフェスタで一日お手伝いをしたとき、ちいちゃな子どもたちと直に接した。
楽しかったけど、それ以上に、こわかった。
すごくこわかった。

 

簡単な楽器を作ろうという企画。カプセルでマラカスのようなものを作ったり、絵を描いた厚紙に鈴をつけたり。

 

わたしはずっと笛を吹いていたのでほとんど中は見ていなかったけれど、唯一、直接いっしょにやったのは、1歳7ヶ月の女の子だった。
もう、ほにゃほにゃの赤ちゃん。
いすにちょこんと乗っているちいさな身体はふにゃふにゃで、手の大きさはわたしの半分もなくて、でも、澄んだ目はしっかり開いてわたしの顔を見つめ、厚紙にシールをやっと一枚貼っては、毎回どや顔で渡してくる。すこしやったら飽きてヨーヨーをさわっていたけれど、自分の楽器が知らないうちにできあがって首にかけられると、お腹のあたりにぶら下がる、カラフルな音が鳴る物体をまじまじと眺めては、さわって、にぎって、振ったりしていた。

 

その子だけでなく、わたしはその日、あのブースに来た子たちが、ハサミでケガしないかとか、モールを目にさしちゃわないかとか、椅子からおっこちないかとか、鈴食べちゃわないかとか、実は、気が気じゃなかった。笛を吹きつつ、ずっとそわそわしていた。

 

子どもはいろんなことをする。
なにも考えずに好奇心だけで数十万のフルートのキーを力いっぱいねじ曲げようとしたりもする。

そういう生き物だから、そういう生き物だから、
おもしろくて、楽しくて、そして、おとなの数百倍、気をつけなきゃいけない。


あの事故は子どもとかのレベルではない話で、悪質な危機管理とずさんさと驕りの積み重ねによって導かれたものだけれど、あの日にこれでもかと目をきらきらさせて遊ぶ子どもたちと直に触れたあと、あの、5歳の男の子の奥にあるわくわくした気持ちが痛いほどわかってしまう。
光を見つめるきらきらした目が、ありありと浮かぶのだ。


耐えきれないほどつらい。たぶん、もうすこし時間がかかる。

いや、このことを思い出すと一生悲しむと思う。
そうあらなきゃいけないと思う。
ずっと消化はできないまま、残っている、そういうものだと思う。
ちはやぶる子どもたちを、あのエネルギーを、おとなが奪ってしまうことは、どれほど罪なことなのか、どれほど悲しいことなのか、わたしはそれを言葉にするまで、まだ時間がかかる。

 

笛に息を吹き込むと、遠くまで届く音に、ちびっこたちは目をきらきらさせて寄ってきた。一人ひとりのどきどきした表情に囲まれて、わたしも、どきどきした。
ちびっこは適当にぴろぴろ笛を吹いているわたしをすっかり囲んでしまい、わたしの笛に合わせて歌った。
あ、トトロだ!とか、アリエル!とか、「生」の反応を返してくれる彼らの身体はものすんごくちいちゃくて、わたしが目一杯しゃがんでやっと同じ目線になれるくらいだった。

かわいいとか、純粋とか、そういう言葉でも、その「生きている」感が伝わらないと思うくらいに、やっぱり全力の「生」だった。


子ども、気になる。あの存在にたまらなく心を惹かれる。
まだそれが、どうしてかわからない。

そのことと、わたしが研究において子どもの本にフォーカスすることが直接繋がっているのはたしかだ。
ただ、現実の子どもと本のなかの子どもとは、当然異なる。むしろ児童文学であれば、書き手の視点は子どもの内面に入り込むから、より自分の共感とか、過去の記憶に繋がりやすい。

ああ、たしかにあの頃はそうだったなあ、とか。

わくわくする気持ちから、さびしい気持ちから、かなしい気持ちから、なんでもかんでも思い出してしまう。正直に言うと、研究対象にはいつも、心が動いてしまってしようがない。登場人物の感情に、作者の想いに、何度も涙でページや画面が見えなくなりながら、読んだり書いたりしている。

 

子どもという存在自体に、深いところで「共感」しているのかもしれない。もしかしたら。

今度の指導教授は、その、惹かれる部分も惹かれ方も深く理解してくれる方だから、少し安心して、勉強は怠らず、思いっきり感じながら、読んで書いて、をしたいと思う。

 

りんりん鳴る物体を手にした、ほにゃほにゃの彼女は、数歩、むこうによちよち歩いて、振り返り、またこっちへ歩いてきた。それはそれはおぼつかない足どりで、いまにも転ぶのではと一秒ごとにひやひやしたけれど、無事にわたしのすこし前にたどりつくと、同じ目線の大きな人に、あのちいさな手を伸ばした。

わたしも手を伸ばすと、ふにゃっとした、でも、たしかに体温のある、彼女の手が、わたしの手のひらの真ん中に、ぽちょんと当たった。

 

 

 

***

 

 


わたしが卒論や修論で扱った児童文学の作家たちは、子どもに対して何か、特殊な感覚を持っているように思う。

子どもの内面を克明に描写することは、そんなに容易いことじゃない。


ひとつの共通するキーワードは、
「子どもへの信頼と尊敬」だと思う。


信じている。小さいあの人たちが、見えないものを見る力があるということ。まるっと信じる力があること。あらゆることを敏感に感じ取る力があること。そして、彼らを尊敬している。

相手がどんな存在でも、対等に向き合うこと。

一瞬一瞬を全力で楽しむこと。

光や色のまぶしさに、強く、惹きつけられること。

それは、決して他に変えられない、そして、決してとどめておくことのできない、儚い子どもの力だ。

 

 


ずっと、スカートの裾をまた土で汚すくらいに、ちゃんとしゃがんでおきたい。土のにおいを忘れないように。


きっと、研究はできない。

この気持ちを忘れたら。 

 

あの体温を、忘れたら。

 

 

 

ずっと、この身体で生きている。