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いま立っている場所から

 

いいなあ、初めて、かあ!この歳になるとなかなか「初めて」ってなくなるから、いいわねえ。
と、名古屋から東京に向かう新幹線で、一緒に学会に参加した児童文学の先生に言われた。

 

旅行以外で、しかも一人で関西まで行くのは初めてで、ずっとどきどきわくわくしていた。日本イギリス児童文学会の研究大会にて発表をするのは二回目。この学会で初めての研究発表をしたのが、ちょうど一年前の今頃だった。

それを先生に話すと、そう言われたのだ。新鮮さがあってうらやましい、と。
そんなことを言われたのは初めてで(またか)、なんとなく、じんわり、うれしくなった。

たしかにこの歳になってもずっと、初めて、は多い。
それに、また新しい「初めて」に出会うたびに、全力でどきどきしたりわくわくしたりダメージを受けたりうれしくて泣いたり悲しくて泣いたりしている。新鮮でなくなっていくのは、あとどれくらいだろうか。
そう思うと、若いというのも悪くないという気がする。

 

そう。
最初の記事に書いた山田ズーニーの本、『おとなの進路教室』で、わたしの中に一番印象に残った言葉は、「立脚点」だ。

若くて経験が浅いこと、お金がないこと、勉強している最中だということ。
どれも、わたしは恥ずかしいと感じていた。ずっと。
社会人や先生方と比べたわたしのこの「立脚点」に対するこの恥ずかしさがどうしても拭えず、苦しかった。自分がいたい場所にいても、なんとなくいつも気後れしていた。

彼女は、「立脚点」という章を、こう書き始めている。

 

 このところ、「立脚点」という言葉が頭から離れない。
 たしかに、「どこへ行きたいか」というゴールが明確な人間、そこに行くための才能や技術のある人間は、華やかな成果をあげて素晴らしい。

 でも、それ以上に、「自分はどこに立っているか」を知っている人間は強い。

 

きっと、繊細で鋭い目を持って人を見ているからわかるのだ。謙虚さ、とか、その人の性質を超えて、もっと奥の、心意気、みたいなことだと思う。彼女は、素人としてドキュメンタリー映画を作った彼女の友人の例を出して、こう書いている。

 

 自分が立っているところがわかれば、新人でも、情報発信はできるし、伝わるんだということ。一生のうちで、新人のときほど、立ち位置が明解なときはないのではないか、それを知れば、旧人にまねのできない、受け取る人に染み入るような表現ができるのではないかということ。 

 

新人のときほど、立ち位置が明解なときはない。その通りだと思う。その言葉の説得力とともに、勇気が湧いてくる。院生として学会発表が続くわたしにはこの言葉は大きく響いた。勉強中だから、わからないと言える。勉強中だから、先生に聞ける。教えを乞うことができる。教えてもらえる。
そして、まっさらな感性で作品を読み、こう感じたんだ、こう思ったんだと、拙い言葉でも書けば、話せば、それは何かしらのエネルギーを孕む。
立ち位置がわかっていれば、謙虚さは消えない。だって、自分以外のだれもを尊敬できるはずだから。どんなに年を重ねたって、わたしのような若者に必ず丁寧な言葉で接してくれる人というのはそういう人たちだ。「尊敬」のまなざしは、言葉にせずとも相手にかならず伝わる。もちろん、その逆も。

わたしが先生を大好きな理由は、そこだ。わたしの若さと新鮮さと感性をしっかり見つめて、それを、対等な立場で尊重してくれる。彼女は、ほかのだれよりも、人に対して「真摯」なのだ。だから、だれよりも尊敬しているし、大好きだ。

そして、山田ズーニーも間違いなくそういう人だと思う。だってこんな文章を書くんだもの。

いま、私が魅力を感じる人は、お金とか、地位とか、権威とか、自分にはりつける強いアイテムを何ひとつ持たず。「自分はこれからだ」ともがいている人たちだ。
 弱いからこそ、ひらいている。そういうむき出しの表現は、やっぱり強い。人を引きつける。

そしてそのすこしあとに、こう想いを帰す。

より強いアイテムで身を固めようとするとき、寂しいのかもしれない。その寂しさを満たすのは、そんな大きくたくさんのものでなく、たった一人、自分を理解してほしい人と、心から通じ合う時間かもしれない。 

弱さも強さも理由がある。環境、状況、価値観、感情、そういうところから、表に出てきた行動があり、その結果がある。いまあるその人の姿から、その内側を、奥の奥の奥を「想像」すること。その「真摯さ」が、わたしはとても好きだ。「寂しさ」というワードをすくい上げていることも。

こんなふうに、すこし先輩となった彼女が、等身大の、自分の立っている場所から、かつての自分と同じようにぐらつく若者に、だれかに、後輩にむけて言葉を紡ぐ。そのエネルギーに押された、「立脚点」という言葉が、またわたしの頭から離れない。

恥ずかしく思う必要がないこと。

若くたって、勉強中だったって、そういう自分であるが故の、「初めて」がある日常が、新鮮で、幸せだ。

 

「初めて」だから、帰りの新幹線のなかで、こんなに幸せな気持ちになれるんだもの。

 

 

***

 

 

俳句のおもしろさを最近知った。

 

きっかけは、最近よくテレビに出ている、俳人「夏井いつき」を知ってから。
彼女の魅力に、ぐいっとひっぱられた。彼女が語る歳時記に詰まっている、感性の豊かさ。日本人でよかったと思う。言葉の持つ力をあらためて知った。
人が紡いできた言葉は、人の五感と、人の体温とつながっている。そう思う。

 

この間ある番組で、彼女が、最愛の夫が病に倒れたときのことを話していたとき、こう言っていた。


「俳句をつくることを、わたしの祈りにしよう、と思った」

 

「俳句をつくることを、」まで聞いた時点では想像もつかなかった、「祈り」という言葉に、わたしは心底びっくりしてしまった。

なんという、温度のある、体温のある言葉を使う人だろう。
日本語を極めに極めた人であることはわかりつつも、単にそれだけはない、やさしくやわらかい、内側の熱をすくい上げるのが、ああ、何とうまいこと。

 

 

文学は何の役に立つのか、と、よく問われる。

わたしも、文学のおもしろさに惹かれるようになったのと同時に、その問いを考えざるをえなくなった。ぼんやりしている考えのみで、はっきりとした答えはまだ出ない。

影響も、効果も、力も、数字では測定できない。無数の命を救う医療なんかと比べたら、と思ったこともある。
それでも思ってしまう。病気が治ったらうれしいけれど、はたして長く生きることが無条件にいいことだと言えるのか。それが人間にとっての幸せなのか。わたしたちの言う「幸せ」って何なのか。経済がもたらす「豊かさ」って何なのか。

価値観も性質もまるで違う生き物が生きているこの世界を見るのに、科学の目や、天文学の目や、医学の目、植物学の目、物理学の目、芸術の目が、必要だ。そして、言葉という側面から、言葉を使って切り込んでいく、文学の目だって、必要なのだ。そこには、この世界で生きていた、または生きている人間の感情を、思考を記録してきた書物が必要なのだ。そしてそれを読み、大事なことを「ひろい上げる」人が。


過去に生きた人やいまを生きる人の手で書かれたものを、そのなかの一つひとつの言葉をこうしてひたすらに読み味わっていると、書き手の、だれかに伝えたいというシンプルな想いだけではない、もっとスケールの大きい、世界そのものに向けた「祈り」や、その人のなかの、内側に向けた「祈り」のような、とてつもない精神のエネルギーを、感じる。

わたしがこの文章を、だれに向けるのでもなく書き続けてしまうのだって、「祈り」に近い。

 

言葉は強い。

言葉は強いから、周囲のものをひっぱってしまうこともある。

そんでも、そこにはなんらかの、「祈り」に似たエネルギーがあって、それが、役に立つ、役に立たない、というレベルを超えて、この世界で生きる人のあいだにただよい、いくつもの生を潤わすことがあると思う。

そういう、目に見えないものを、数字で測れないものを、見られる人が好きだ、と、思う。

言葉の奥にあるものを、「想像」できる人が好きだ、と思う。

そして、そういうものの価値を、わたしの好きな人たちのように、伝えられる人になりたい。
わたしがいま立っている場所から、言葉を書き続けたい。
それを、わたしの祈りにしたい。

 

 

ずっと、この身体で生きている。