うなぎ in ゼリー

 
 4月が終わった。
愛する女子大の外に出て、共学の、男子が断然多い大学の雰囲気に圧倒されるのも、だんだんと慣れてきた。
 
「慣れ」とはこわいもので、7年間ものあいだ、自分と似たような感覚を持つ、体の大きさもそんなに変わらない女の子たちに囲まれて過ごしたわたしは、食堂に並ぶ列での前の男の子たちの背の高さや、両隣でパソコン作業をする男の子の身体の大きさ、たくましさに、その圧倒的に「強い」感じに、なんとなく悔しいような、羨ましいような気持ちになる。吸う息も吐く息も浅くなる。それはもう、不思議だ。
 
自分ががたがたと体調を崩しているときだったからということもあるかもしれないけれど。それでも、前の大学での気持ちの持ちよう、みたいなものを保つのが難しく感じることは確か。共学に通う妹に話を聞くと、リーダーや前に出る役は大体男の子がやると言う。そうなのかあ、そういう「文化」はなかった。男の子がいないので当然だ。女子大では、前に出たりリーダーをやること、グループを引っ張ることに、まったく躊躇する必要がなかった。どんな場面だって、わたしたちの「違い」はすべて、性別でなく、ただの個性だった。けれどもその個性の「多様さ」は、外から眺めると、さほど「多様」ではなかったみたいだ。
 
あのキャンパスを一歩出たことで、人の「内側」の違いだけじゃない、「外側」=身体の性質=性別が、いよいよ影響してきた。気がする。こんなことを感じるのは、今まであまりに「社会性」からかけ離れた、こぢんまり居心地の良いサンクチュアリで生きてきたからなのだろう。7年間その環境に甘んじてきたわたしの感覚の蓄積は、一方でその感覚そのものを麻痺させた。
いや、こう書くとあまりに大袈裟だと自分でも思うけれど、自分の中でも結構な「びっくり」だったのだ。
 
入学式、健康診断、ガイダンス。この三日間あのキャンパスに足を踏み入れることで、かなり消耗したように思う。そして次の週、授業の初日、2コマを終えて帰ろうして駅で倒れた。
 
身体的なものと精神的なもの、それぞれがいっぱいいっぱいだったのだろうということは想像できる。自分の身体なのにこんな言い方はおかしいけれど。
昔から、緊張に弱い。自分で自分に、ほれほれ、大丈夫よ〜と話しかけるのだけれど、効き目なんてありゃしない。そんでも、胃のあたりをさすさすしながら、きみ、もう少し感受性を弱められんのかいな〜と話しかける。
その弱々しさが、非常に情けなく、悔しくなる。あのとき男性の救急隊員に、ひょいと持ち上げられたときの、無力感。
ぼんやりと遠のく意識のなかでも、ただただ悔しくてたまらなかった、彼らへの申し訳なさに、自分のこの身体の情けなさに、泣けてきてしょうがなかった。
お兄さんは救急車の中でわたしが泣いていることに気付いて、なに勉強してるんですか?さいきんイギリス行きました?ぼくは前、バックパッカーで行って、でもロンドン物価高いですよね、あの、うなぎの料理食べました?あれ食べた方がいいですよ、ロンドンの、うなぎの店。絶対行ってくださいね、最高にまずいから!って、降りる直前まで痛みから気を紛らわし、元気づけてくれた。
あ、うなぎ、あの、ゼリーに入ったやつ、と、しゃくりあげながら笑ったわたしに、そうそう!と笑った彼の、頼もしさ。
 
わたしを抱えるあの腕の、なんと逞しいこと。涙でぐちょぐちょのわたしを見る目のなんと凛々しいこと。それに対して自分のこんな姿の、なんと情けないこと。
 
自分のコートをかけてくれた人、水を買ってきてそばに置いてくれた人、びっくりさせてしまった人、ごめんなさいもありがとうも、十分に言えないままだった。お兄さんへのお礼も蚊の鳴くような声でしか伝えられないままで、涙ばかりが次々にあふれたあの時間が、記憶に焼き付き、忘れられない。
 
 
「か弱さ」は、女の子らしさに結び付けられることが多い。
 
昨日はピーマンが食べられないと言ったら「かわいい」と言われて、びっくりした。幼さ、無力さ、か弱さ、そういうものは、なぜだか「女性性」にむすびつけられるらしい。
そこには同時に、ごくごく自然に、「権力」が生まれる。
 
強いものと、弱いもの。その二項対立に直面したとき、なんとかしてその概念を、構造を理解し、受け入れようとするのだけれど、なかなかそう簡単にはいかない。あたまでは分かるけど気持ちでは解せぬ、的なことだろうか。
 
たとえば、強くなればいいわけじゃない。男性性に憧れるわけでも、自分をそこに同化したいわけでもない。
でも――でも。この世に性がなければ、どんなに楽だったろうか。
女性でもない男性でもない、無性になりたい、と、ふわふわ思ってみたりしている。
性や、性の持つ暴力性は、わたしにとっては最大の難問であるようだ、なあ、
 
辛うじてわたしにできるのは、その手に負えないような難問も、自分の情けなさも、胃の痛みも抱えたまんまで、同じような、みんなよりちょっとだけ小さい身体を持つ「子ども」を想って語られた物語を読むこと。まだ自分を語る言葉を少ししか持たない彼らの、弱さとたしかさを掬い上げ、その存在への尊敬を、価値を、語り続けること。
 
そして、成長した彼らの、わたしたちの「生」を見つめ続けること。考え続けること。
 
ひー。すんごいまとまらなさ。こういうことを考えてぐるぐるして、時間が過ぎていく日々だ、たぶん、これからもずっと。答えと言えるものはきっと死ぬまで見つからない。この魂が何回か生きて死んでを繰り返し、ようやくすこし、わかってくるのかもしれない。そうじゃないかもしれない。
 
それでも、考えずにはいられない。
 
この魂が、今世で、ちょっと打たれ弱めのめんどくさい女性として物理的な身体をもって生きることになったことの意味を、なんとか見出したいなあ。
だれにとって役に立つとか、愛し愛されるとか、そういうわかりやすい価値はあんまりなくっても。
ちょっとばかしの、そういう、ひとつの「生」の意味を。
 
その合間に一回くらい、まずいうなぎ in ゼリーを味わってみたい。